94.建前と正気と誇り、その隣側 --------------------



この島に来てから何時間経ったのだろう、とポケットに入れておいた腕時計を見た。
見ると時計の短針は4を少し離れた場所にある。
もうそんな時間か、と小さく息を吐く音が風に紛れて消えた。
谷はかすかに見える空と海とを分ける水平線を眺めている。

ゲームを壊す、俺は確かにそう決めた。
空を見上げ、雲と雲の隙間を探す。

だが実際どうだ?この島に来てからやったことといえば、岩隈を追い詰めたことぐらいじゃないか。
頭では許そうと思ってたのに、心がそれを拒否した。
あぁそういえば心って頭にあるんだっけ。
それじゃあ俺の中の建前だけは許していて、残り全部ひっくるめて岩隈のことを許せてなかったのか。
・・・・『建前』。
宙を見つめていた谷の目が伏せられる。
そしてじっと手元の金属バットを見ると、もう一度溜息をついて目を閉じた。

『このメンバーでできたことは誇りに思いますし、金メダルを取れなかったことは残念に思いますけど、
また後半のシーズンもありますので、またしっかりとやりたいと思います。』

今でもはっきりと思い出せる。
まるで夜の井戸のようにに暗く冷たい空気の中で自らの口から出てきた言葉。

あれは――本心じゃなかった、本心な訳あるか。
悔しかった、自分が最後の打者であったことも銅メダルだったことも全て全て悔しかった。
ただ泣きたかった、ただ叫びたかった、ただひたすらに自分を責めていたかった。
しかしそれを表に出してしまえば、敗者というものがどれだけ惨めに見えるかが分かっていた。
だから口には出さなかった。
そうして自分を押し殺して、喉の奥に沈めた言葉がいつの間にか形を変えていたことに気付かなかった。
――いや、気付いていた。それを見て見ぬ振りをしたのだ。
それは自分を守るため、それは自分が正気であることに浸っていたかったから。

無意識のうちに谷は膝を抱え、爪を噛んでいた。
そうすることによって自分の中にある何かを理性によって留めようとするかのように。
正気?とふと自分が示した言葉に谷は疑問符をつけた。

正気なんて、どこにあるんだ?
もしかしたらみんな岩隈みたいになってるかも知れないって言うのに。
正気って何だろうな。きっとあの船に乗ってる誰かは知ってるはずだ。
正気とその隣側にある何かを知っててこんな事を始めたんだろうから。
・・・・やっぱり、このゲームを壊すしかない。

壊せばきっと『正気』が何か分かるはずだ、壊せば元の世界へ戻れるのだから。
妻とブルーウェーブが待つ元の世界・・・・
あぁ違ったもう『ブルーウェーブ』じゃないんだ、『バファローズ』か。
自分でも気付かないうちに谷は笑っていた、自らを嘲うかのように。

ブルーウェーブ、俺の『誇り』はあの日――9月23日を境に段々と消えていった。
例えチームメイトが残ろうとも、例え本拠地が残ろうとも、
例えマスコットが残ろうとも、例え自分の居場所が残ろうとも関係無かった。
俺が愛していたのはオリックスブルーウェーブという一つの『チーム』だから。だから・・・・

・・・・もう考えるのは止めよう。
爪から歯を離して立ち上がり、体についた砂を払って谷は来た道を再び歩き始める。
そして右手に持った金属バットを両手で握りなおした。


このゲームを壊して元の世界に戻ってやる。
だから。
邪魔する奴は、許さない。

今までとは明らかに違う眼差しの色が谷に宿った瞬間だった。


【谷佳知(10) T−5】




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