86.静寂へ --------------------



聞こえるのは波の音だけ。岩隈は暫し呆然と立ち尽くしたままであった。
「静かだな…」
驚くほど静かな世界。それは狂乱を冷ますか、さらなる狂乱に陥るか。
岩隈は能面のような表情で歩き出す。
走り去った黒田はどこへ行ったのだろう。みんなどこへ居るのだろう。
「どうしようかな。どこへ行こうかな…」
とりあえず鞄の中は他に何があるのか。もしかしたらドッキリ大成功!なんて
紙が入っているかもしれない。表情一つ変えずに岩隈は鞄を開く。
「……」
出てきたのは希望ではなく絶望であった。不気味に光る重く堅い
死神のような色合いの銃は、この殺し合いとなる状況の現れだった。
「は…ははは…」
力無く笑いだした岩隈は、やがてケタケタとヒステリックな笑い声になる。
「はははっ…何だよ、これ!」
ラベルには読解不可能なアラビアっぽい文字が書き連ねられており、
かろうじて読めるのはウージーという文字だけであった。
「よりによってこんな…は、ははは…」
やがて、発作が治まるかのように、ピタリと能面のような表情に戻ると、
一目散に走り出した。何処へ行こうとか何か目的があるわけでもなく
ただ走る。とにかく何かをしていたかったからだ。
「…!」
だが、先に見えた人物に、思わず足を止め引き返しそうになってしまう。
「…岩隈。」
それは谷であり、逃げようにも向こうも岩隈に気がつき、間に微妙な空気が流れた。
「……」
一番会いたくなかった選手かもしれない。狂乱で暴走しかけた頭が一気に冷える。
(谷さんは僕を…自分勝手で利己主義と思ってるだろうな…)
新球団移転時に最後まで訴え続けた谷は、自分を心中ではどう思っているか…
今は僅かなわだかまりでさえ恐ろしい。岩隈は怯えるように谷を見る。

「…お前は何をしているんだ?」
ゆっくりと谷は尋ねる。岩隈に対して今更どうこう思う事は無い…と思っていた。
(何をしているんだ、お前は?また…自分の事に必死なのか?)
どうやら自分で思ってた以上に、この岩隈に対して色々と蟠りがあったようだ。
「俺は…このゲームを壊す。何が何でも壊してやる…お前は?」
「僕は…僕も…」
ゲームを壊さない事にはどうしようもない。だが、その勇気がない。
(でも…谷さんは一人でも壊そうと決意している…)
本当に責任感がある、強い選手である。そんな彼とならば…
だが、一度手を振り払っておいて、どの面下げて一緒に行こうなどと言えるか。
(こいつは自分が生き残るために…俺の手を振り払って新球団に行った。)
いつまでもネチネチと責める自分が嫌になるが、堪えていた蟠りが今になって
どうしようもなくあふれ出すのを止められなかった。
「僕も?僕もどうする気だ?」
言ってはいけない。分かっているが止められない。
「あの時と同じ…自分の身最優先で俺の手を振り払うか?」
冷たい谷の言葉に、岩隈の表情はみるみると強張り、悲痛に苦しげに揺らぐ。
「僕もどうする気だ?あの時と同じ、生き残るためにそいつを…ぶっ放すか?」
「…!」
岩隈の表情は悲痛なものから再び…どうしようもないものへの狂乱へと変わる。
「い、岩隈…俺は…」
言ってはならぬことを言ってしまった。激しく後悔し、谷は岩隈に手を伸ばす。
「う、うわあああっ…」
だが岩隈の瞳は先ほど以上の狂乱のもの…歪み何も映らない濁ったものへと変わり、
谷を勢い良く突き飛ばすと、悲痛の雄叫びとともに逃げ去った。
「岩隈!待てっ!悪かったっ…」
谷は縋るように叫ぶが、立ち上がる間に岩隈はあっという間に遠くへ逃げ去ってしまった。
「…岩隈、ごめん…俺は…」
こんなにも恨みがましい、愚かな男だったのか。
やってしまった事に打ちのめされるように、谷はその場に立ち尽くすのであった。

【谷 H-3】


「逃げないと…逃げないと…みんな僕を…裏切り者だって…」
ぶつぶつと呟きながら岩隈はただ走り続ける。
「みんな僕を疑うんだ…自分勝手な奴だって…」
谷のように、みんな自分を疑っているに違いない。
新球団に移籍したように、自分の身のために全てを振り払うかのように
生き残るために全てを犠牲にすると疑うに違いない。
「これは夢だ…そうだ、夢だ…こんな酷い現実なんかあるわけない…」
だから逃げる。仲間の疑いの視線からも、仲間に怯える気持からも。
銃を捨てる勇気も、発砲する勇気もない。できるのは逃げる事だけ。
誰もいない静寂へ。湖でも山でもどこでもいい。
「いつか…目が覚めるはずだ。目が覚めたらまどかと羽音がいて…
いつものようにまどかが御飯作ってくれて、僕は羽音と遊んで…」
だから目が覚める時まで、逃げないといけない。
「もしずっと…ずっと目が覚めないなら…」
そのときはこいつを使って目を覚ます事にしよう。
岩隈はウージーを虚ろな目で眺める。
どうしても、このままずっと目を覚まさないままだというなら…
こいつを頭に撃ち込めばきっと目が覚めて、最愛の妻と娘に会えるはずだ。
どこまでが狂乱で、どこまでが正常なのか。
今の岩隈には分からず、分かる必要もなかった。
「これは…夢だから…」
嫌な悪夢が去るまで、誰もいない場所で待とう。
悪夢の一部であるウージーを鞄の一番底にしまい込み、
ふらつく足取りで岩隈は進む。誰もいない静寂へと。

【岩隈 H-3からC-5に向けて移動中】




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