63.阿部と石川の潜入レポート1 〜編集主幹〜 --------------------
『あの人』は、嬉々として出かけていった。
今頃はダイアモンド・プリンセス・シーのVIPルームにでも陣取って、きっと唯一神気取りで下の者をこき使っているのだろう。
「なんだ、来ないの?これから面白いことが始まるのに。」
本社を空けるわけにはいかないと同行を断ったら、さも残念そうに『あの人』は言った。
「こんな面白いショーを間近で見ないなんて、もったいない。」
これから始まるBR。アテネで戦った日本代表が、理不尽な天秤にかけられる。
一度は同じチームでプレイした仲間同士の、殺し合い。
・・・人を駒としてしか見ることができない『あの人』だからこそ、他人事。
アテネ日本代表は、日本プロ野球でも選りすぐりの逸材たちだ。それが失われたときの、影響は計り知れない。
こんなことをしても何も残らないというのに、まだ懲りていないようだ。
そもそも、アテネの野球日本代表に対してキャンペーンを張ったのは誰の肝いりだったと思っているのか。
盛り上げるだけ盛り上げて、いざ日本代表が銅メダルに終わったとき、気づくと知らぬ存ぜぬの一点張りで。
盛り上がった世論を操作するためにどれだけこっちが苦労したか。
あのままだったら、それこそ野球自体が叩かれて今よりもっと悲惨なことになっていたかもしれない。
結果として近鉄球団がスケープゴートとなってしまったことを、今でも悔いている。
もっと別のうまいやり方があったはずだ。
そう、『あの人』の介入さえなければ。
今回のBRの運営資金にしても、(さすがにBRの資金だとは言わなかったが)
『あの人』の一声でグループ傘下企業がそれぞれ一部供出させられている。
このままだと、伝統ある読売グループ全体が揺らぐことになりかねない。
なんとか例の栄養費問題でスポーツ振興の直接の運営からは引き離したが、グループ全体への影響力は今だ健在だ。
社内に『あの人』の間謀が何人もいることは分かっている。
不穏な動きを見せたら『あの人』の気分ひとつで更迭。・・・力を持たざる者の末路は、いままで嫌というほど見てきた。
「どうにか・・・ならんものか・・・。」
『あの人』を引き摺り下ろす絶好のタイミングなのだが・・・。なんとかして、選手たちを救ってやれないものか。
読売新聞東京本社の取締役室で、滝鼻卓雄は革張りの大きな椅子に体をうずめ、思案に暮れていた。
自分にも当然監視の目があるし、表立って動くことができない。さて・・・。
ふいに机の上にある電話が内線を告げた。液晶画面に表示された内線番号は、腹心として動いている高見秘書のものだ。
『社長。配下の者から報告があり、これから巨人軍の阿部様が来社するとのことです。』
「阿部君が、この時間に・・・。」
滝鼻が見た電波時計は午後7時を指している。「高見君、コーヒーを入れてくれないか?」
『ただいま参ります。』
受話器を置き、滝鼻は自分のパソコンにUSBメモリを挿すといくつかファイルをコピーした。
「失礼致します。」
数回のノックの後、えんじ色のスーツを着た高見がコーヒーを淹れたカップをトレイに載せて現れる。
「これを頼む。」
空になったカップとともに、滝鼻は小さなUSBメモリを高見に渡した。
高見はそれを眉ひとつ動かさずに一瞥すると、自分のポケットの中に入れる。
「かしこまりました。」
「・・・で、僕は何をすればいいんですか?」
石川雅規はハンドルを握る阿部慎之助に聞いた。
「ああ、居てくれればいいよ。」
二人を乗せた車は、首都高神田橋出口から右に曲がる。「会う人にはアポ取ってるから。」
「大丈夫なんですか?」
石川は天を仰いだ。「なんだか不安だなぁ・・・。」
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