58.エンジェル --------------------



 男は雑木林の中をざくざくと枯れ葉を踏み締めつつ歩んでいた。
 肌に撫でる風は冷たいが、上陸した浜から休まずに移動して来た男の額にはうっすらと汗が滲み出していた。
 足を止めて木々の間から空を見上げると、まるで心の中を映したかのごとく重苦しい曇天に被われている。
 男は額に浮いた汗を拭おうと帽子を取った。
 ユニフォームの袖で額から上へと撫で付ける。
 それから、陽光であれば目立って仕方なったであろう頭をしっかりと帽子で隠した。

 和田一浩。背番号55番。
 出発は後ろから3番目だった。それが良い順番だったのか、最悪だったのかは分からない。
 少なくとも島に辿り着いた時、砂浜には見なれたユニフォームの遺体は転がっていなかった。
 上陸するなり男達に銃で追い立てられ、慌てて砂浜から伸びる階段を駆け上がった。
 港からは道が左右に伸びていた。
 和田はカバンを肩に担ぎ直すと、何気なく左手へと足を向けた。
 無意識の選択は和田がレフトという守備位置を仕事場にしていたからかもしれない。
 最も入団したときは捕手として期待されていたはずだったのだが。

 ――人を殺したいとも思わない。しかし死にたくもない。
 どちらにも心を決めかね、誰かいないかとずっと海なりに続く道路を歩いていた。
 和田の前に出発した20人はどこへ消えたものか、気配さえ感じない。
 海から吹き付ける風が耳に当たり、冷たさでキンと痛む。
 誰かがどこかで自分を見張っているかのような錯角に、和田は道路を外れると小走りで右手に見える雑木林へと向かった。
 もしかしたら最初に進む方向の選択を間違えたのかもしれない、そう思えて仕方なかった。

 誰もいないのを確認すると木の根元に荷物を落とし、厚く積もった枯れ葉の上へと腰を下ろした。

 ランダムに選ばれた『はず』のカバンを開こうと胸元のポケットを探る。
 紫の封筒を開くと中からカギを取り出し、しっかりと口結ばれた南京錠を開けた。
 和田は疑っていた。
 カバンは意図的にそれに相応しい人物に渡るようになっていたのではないかと。
 このゲームの勝者は無条件にメジャーへと行ける、そう星野は言っていた。
 しかし、参加者全員の目がかの国へ向かっている訳ではない。
 あの不可解な特典が示すこと。
 星野は――いや影にいる主催者には生き残って欲しいと願う男がいるのではないか。
 『メジャー』という響きに相応しい野心を備えた男を。
 例えば、上原。
 松坂。
 ――城島。
 ポスティングで、FAで、メジャーに行きたがっている、行くのではないかと言われている男達。
 彼等にはサバイバルに必要かつ十分な道具が渡っているのでは。
 もし彼等にゲームに乗るつもりがなくとも――人間は弱い生き物だ。
 強大な武器を手に入れれば、使いたくなるかもしれない。

 炎天のアテネの元、一緒に戦った仲間を疑って掛かりたくはない。
 泣いて、笑って、悔しがった仲間達を殺したくもない。
 だが、ここで何もしなければ確実に死んでしまうのだ。
 和田はごくりと唾を飲み込むと、恐る恐る首に巻き付いている『ソレ』に触った。
 金属の妙な冷たさにざわざわと鳥肌が立つ。
 誰も死ぬことがなければ、24時間後にこれが爆発する。
 首が吹っ飛ぶのか、それとも頸動脈を破裂させ、大量出血死させるのか。
 指先が汗でぬるりと滑る。
 今にも首輪が作動しそうな錯角に、和田はそれを毟り取りたい衝動に駆られた。
 指を掛け、しかし、寸前で力を緩める。
 下手に衝撃を与えて最初の――和田が知らないだけで、既にいるかもしれないが――犠牲者にはなりたくない。
 いつしか息はベースランニングをした後のように激しく弾んでいた。
 和田は冷たい一月の空気を胸いっぱいに吸い込み、沸き起こった不安を追い出そうと大きくため息を吐いた。

 改めて見なれた白いカバンを見つめる。
 この中に、支給された武器が入っている。
 メジャーという世界に縁のない自分には大したものは与えられていないだろう、そう思う。
 死にたくはない。だが、殺したくもない。
 自分には最愛の家族が待っている。
 自分以外の者にも待つ家族がいる。
 ――死にたくはない。だが、殺したくもない。
 惑う指でカバンのファスナーを摘むと、ゆっくりと引き開けた。
 大きな布の袋が見えた。
 引っ張り出すと、その袋には針金で説明書らしき小さな紙が括り付けられていた。

【『医療品セット』ラッキーアイテムです! これであなたも、けがなく!あかるく!】

 どこかの監督であった男が口にしそうな言葉が丸文字でしたためられている。
 和田はふぅっと息を吐いた。
 安堵のため息だった。
「どうやら、俺には別の役割があるみたいだ……」
 殺すのでもなく、殺されるのでもない。
 『生かす』という道を得て、和田の心は決まった。
「さしずめ、俺はナイチンゲール、かな」
 聞く人のない呟きに、和田の口元が少しだけ歪む。
 もしかしたら、自分はこの戦場を照らす一筋の光となれるかもしれない。
 となれば、やることは決まっている。
 まずは、いざと言う時にこれを使えるようになっておこう。
 和田はアテネの天使となるべく、医療品セットを開けるとひとつひとつ中身とその使い方をチェックし始めた。

【現在位置:E-6】




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