39.乗船完了 --------------------
ハッキリ言っておかしい。
高橋は愛車で目的地に向かって湾岸沿いをひた走りながらも、まだ不安に捕われていた。
前例のない五輪会。強制参加。罰則。
様々な疑念がぐるぐると頭の中を回る。
妙に息苦しさを感じて高橋は窓を少しだけ開けた。
とたんに一月の冷たい風が吹き込んでせっかく整えた高橋の髪を乱す。
ガラスに映り込む自分のタキシード姿がどこか滑稽だ。誰かがこの姿を見たがったのだろうか。
でもいったい誰が?
高橋は一つため息を吐くと、ついさっきまで電話をしていた人物との会話を思い出していた。
どうしても不信感を拭えない高橋は、一人の人物と接触しようと電話を掛けた。
『はい?』
「ごぶさたしております。高橋由伸です」
『おお、どう?肘の具合は』
電話の向こうの人物は高橋の突然の連絡を喜んでくれたようだった。
気配りが服を着ているような男は、高橋がオフに手術した肘の具合を心配してくれる。
キャンプ当初から痛みはあった。
不安を抱えたままアテネに参加し、ストレスと酷暑の中でさらに悪化させ、痛み止めまで打って宥めた爆弾。
肘を痛めたことは後悔していない。むしろ悔いているのは金メダルが取れなかった、ただそれだけだった。
あの時、ベンチには日の丸とユニフォームか掲げられていた。
みんなが祈りを込めて触れた『3』と書かれただけの日の丸と、誰も触れることが出来ない背番号3。
それをチームに運んで来たのもこの人だった。
もし監督が参加されると言うならば、この人なら何か知っているに違いない。
高橋が連絡をした相手は、今年初めに巨人球団代表付アドバイザーという役職についた人物----長嶋一茂だった。
言わずと知れた長嶋監督の愛息子。去年春にその監督が突然倒れてから、ある意味窓口を務めている唯一の男。
未だ公の場に出て来ることが出来ない監督本人に直接連絡を取るのは何年も世話になって来た高橋でも躊躇われた。
マスコミ関係を一手に引き受けている一茂ならば何かを知っているに違いない。
幸い高橋には巨人の選手会長としての立場がある。
その自分が監督について問い合わせをするのは、何も不審なことはないだろう。
こう考えていること自体、おかしいことなのだ。
何故この五輪会にこれ程までに不信感を覚えるのか、
それを払拭したくて、一通りの挨拶を終えた後、おもむろに高橋は口を開いた。
「今日の五輪会に監督は出席されるのですか?」
『……いや、まだ父は公の場に出る予定はないけど』
ほんの一瞬だけあった沈黙が不審に思えてしまうのは自分の気のせいだろうか。
「え? 本当ですか?」
『ああ。まだね、父は体調が万全ではないから、華やかな席にはね……』
何故かこんな答えが返って来るのを知っていた気がする。
『父も出席したがっていたけど』
そこで言葉が止まる。
『……いや、君たちに会いたかったって残念がっていたよ』
この人は、何か知っている?
高橋の直感がそう告げる。
「あの、今日の五輪会が何故」
強制参加なのか、何か知ってませんか?と続くはずだった言葉は少し強めの言葉で断ち切られた。
『申し訳ない。私はこれから用事があるので、いいかな?』
「あ、済みません、お忙しいところを」
『じゃ』
話を切り上げようとする気配に高橋は早口で引き止めた。
「あの、じゃぁ一つだけ」
『……何?』
少しだけ苛ついたかのような一茂の態度に少し鼻白みながらも、高橋は堅い声で伝言を頼んだ。
「監督に、『お会い出来る日を楽しみにしています』と、お伝え下さい」
『……分かった。確かに伝言を承ったよ』
よほど急いでいるのか、それとも別の理由があったのか、唐突に通話は切れた。
しばらく高橋は物言わぬ携帯を耳にしたまま、さらに膨れ上がった言い様のない不安を見つめていた。
車を停めた高橋はまだ眉間に皺を寄せたまま駐車場に降り立った。
吹き付ける風の冷たさにたまらず腕にかけていたコートを急いで着込む。
「あれか……。『ダイアモンド・プリンセス・シー』」
高橋は船体に記されている文字を一つ一つ声に出して読むと、ふぅっとため息を吐いた。
「でけぇな」
しばしその白く巨大な客船を見上げる。
ここに行けば全てのことが分かるだろう。だが、本当は行きたくない。
時間はもう迫っている、行かなくてはならない。
肘が何かを訴えかけるようにしくりと痛む。思わず左手で押さえ、高橋はそのまま動けなくなった。
追い立てる何かと、引き止める何かの狭間で高橋の身体が凍る。
このままではいけないと、くっと唇を噛み締め、一歩踏み出そうとした時だった。
「由伸、遅いっ!」
聞き覚えのある大声での叱責に振り向いた高橋は、一人の人物を認めると強ばった顔を緩めた。
「なんであの人、わざわざあんなとこにいるんだ」
宮本には聞こえないように小さな声で呟くと、笑いを堪えつつ手を振って足早に近づいて行く。
強い海風に煽られた宮本の前髪はすっかり上にあがってしまっている。
おまけに真上にある水銀灯が丁度そこを照らし出しているのだ。
「お久しぶりです」
「何がおかしい?」
「いいえ」
妙ににやつく高橋の顔を宮本は不思議そうに見ている。
「お前が最後やって」
「もうみんな来てるんですか?」
「さっき大輔とベンちゃんが乗船したところや。あとお前だけやって」
「そう……大輔と、和田さんが」
高橋はどうしても口元が歪むのを抑えきれなかった。
もし和田がまだここに残っていたならば、水銀灯はもっと遠くからでも誰が待っているか明白にしていたのだろう。
見てみたかったな、と心の中だけで呟くが、もちろん宮本はそんなことなど想像もしていない。
「お前、さっきからニヤニヤニヤニヤ、おかしいわ」
「いえ……。すみません、急いでいるんですよね」
「ほら」
宮本が指差す先には巨大な白亜の客船の前で今や遅しと待ちかねている様子の女性係員の姿があった。
「あぁ、じゃぁ急がないと」
二人は肩を並べて足早に乗船ゲートへと向かった。
出航まであと少し。
これで全ての駒が、揃った。
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