37.あと一人 --------------------



松坂大輔は、車を降りてひとつ伸びをした。
眼前に広がる港の風景。
その先に停泊する大きな白い船が、目的の場所だろう。
美しい景色と頬を刺す潮風が、なんとも情緒的だ。
横浜は、彼の第二の故郷ともいうべき青春時代を過ごした土地だった。
あの頃は部活三昧の寮生活で、こんな風にのんびり港の景色をみることもなかった。
きつい練習がいやでズル休みをしたこともあった。
けれど、今時流行らない泥まみれの青春を、後悔したことは一度もない。

一瞬だけ感慨にふけっていると、携帯が鳴った。
着信は『和田一浩』、一緒にこの会に呼ばれている大先輩のチームメイトだ。
そういえば、和田もこの会にはあまり乗り気ではなかった。
「もしもし?」
携帯を耳にあてると、全部言い終わらないうちに、電話の向こうから和田ではない声がした。
「大輔、後ろ向けー!」
それだけ言って、携帯は切れた。

振り向くと、100メートルほど離れた場所で、和田と宮本が手を振っている。
「おそいぞ、こらー!」
宮本が叫び、和田は笑った。
「こんちは!」
松坂が二人に駆け寄ると、宮本はビシッと指を突きつけた。
「遅いっ! 大輔、グランド10周!」
「待ち合わせしてないじゃないっすか」
ひょうきん者のキャプテンに、松坂は苦笑した。
直前まで参加を迷っていた松坂は、誰とも待ち合わせしていない。
「船はあれですよね?」
車を停めた方を振り向く。その先に浮かぶ巨大な船。

ちょうどその時、船の方から係員らしき男が歩いてきた。
「まもなく出航となりますので、ご乗船お急ぎください」
儀礼的に言った。
「もう皆来てるんですか?」
宮本がたずねると、男は持っていた書類に目を落とし「まだご乗船手続きをされてないのは、四名様です」と言った。
三人は顔を見合わせた。では、あと一人だ。
「あと誰です?」
「読売ジャイアンツの高橋様です」
「由伸の奴、しゃあないな。じゃあ、俺待ってるわ」
「じゃあ、俺も」
宮本の言葉に、和田が従う。
「俺は先行ってます」
係員に預けた車を見送った松坂は、あっさりと言った。
「なんや、薄情もん。一緒に待たんかい」
「いやですよ、肩冷えるし」
1月の海風は冷たい。確かに、いつまでもここにいると体が冷える。
「そりゃそうやな」
宮本はあっさり引き下がったが、和田は内心はらはらする。
よくいえば天真爛漫、悪くいえば傍若無人。しかし本人にはまったく悪気はない。
松坂の性格をよく知っているチームメイトならともかく、
10歳も年下の後輩にそんな口をきかれれば、普通なら気を悪くしてもおかしくない。
しかし、宮本は気にしないどころかむしろ感心していた。
なにしろヤクルトには、包丁で指を切ったり、サッカー観戦に行って風邪を引いてきたりするピッチャーがいる。
松坂の自己管理の意識の高さは、自軍の同世代の投手陣に見習わせたいくらいだ。

しかし、今回の松坂はそれだけではなかったようだ。
「それに俺、出る時ちょっとバタバタしちゃって、まだ着替えてないし」
松坂は持っていた紙袋をかざしてみせた。
和田と宮本は笑う。
「しょうがないな、大輔は。なにやってんだ」
「これだから新婚は。どうせ嫁さんといちゃこらしてたんだろ」
「してませんて」
そう言いながらも、松坂はにやけた。
「でも、うちの奥さん、スーツ仕立てといてくれたんですよ」
いいでしょ?と自慢げな松坂に、和田と宮本は顔を見合わせた。
「大輔。俺たち皆、タキシードだぞ」
「え?」
和田の言葉に松坂はきょとんとした。
「ほらほら」
宮本がコートの襟をはだけて蝶ネクタイを見せる。
「え? え? マジっすか?」
「マジだよ。少なくともフレンドパークに出た連中は、皆タキシード着るって言ってた」
「え、嘘! スーツ俺だけ?」
「他はわからんが、たぶん」
「巨人もタキシードだって言うてたな」
「えー!?」
松坂は、コートのポケットから封書を取り出した。慌てて文面を読み直す。
「だって、これ! 正装としか書いてないっすよ! スーツじゃダメなんすか!?」
「うん、まぁ、ダメってこともないだろう」

和田がなだめたが、松坂はまだショックのようだった。
「うわー、どうしよ、俺。恥ずかしー!」
「いいんじゃないか? お前らしくて」
「それ、どういう意味っすか〜」
拗ねる松坂に、宮本が笑って促した。
「いいから、大輔、早く乗れよ。おねーちゃんが困ってるぞ」
見ると、乗船ゲートの女性係員がこちらを注視していた。
困ってるようには見えなかったが、早く乗船して欲しいのは間違いないだろう。
「ベンちゃんも先行きなよ。由伸は俺が待ってるし」
宮本はにやりと笑った。
「一応キャプテンだしな。喝入れてやらにゃ」



松坂と和田の背を見送った後、宮本は誰もいなくなった港を見回した。
高橋の姿は、まだ見えない。


悪魔のはかりごとが完成するまで、あと一人。




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