32.デッドライン --------------------



タクシーから下りると、凍てつくような潮風が頬を掠めた。
「さっびー!」
木村は思わず声に出し、背を丸めると前方に居る黒田の背中の後ろに隠れる。
何とか寒さを紛らわそうとしたが、黒田が振り返り横に並んだ所為で盾となるものが無くなってしまった。
寒い寒いと連呼しながら仕方なく歩き出した木村。小さい体を一層縮める木村を笑いながら黒田も歩き出した。
風に晒されたコートがはためき、ばたばたと音を立てる。
大桟橋に向かう二人の後方で、タクシーは何かに怯えるように急いでその場を去った。

「アレ、ですよね。」
「あーそうだろ。アレしかないじゃん。寒い。何でもいいから早よ入ろ。」
アレ、と黒田が指差した先には、横浜の美しい景色に馴染む、思わず目も眩みそうな豪華客船。
黒田の言葉に一度適当な返事をしてから、木村は顔を上げ足を止めた。
「でか・・・」
「ほんまにアレ、なんすかね。」
「アレ、やろ、多分。・・・写メール送ってやろ。」
早速携帯を取り出し、恒希喜ぶかなぁと息子の名前を口にした木村。
そんな木村の嬉しそうな顔を見つめ、黒田は小さく息を吐いた。
さっきからしていた、予感めいた嫌な胸騒ぎがすっと消えていく。
思い過ごしだったんだろうと自分に言い聞かせ、黒田は歩き出した。
いつも石橋を叩いて渡る自分の腰の引けた性分と、木村の何にでも向かっていく姿を比べて思わず苦笑を漏らす。
エースになりきれない自分と、長年ユーティリティープレーヤーとしてチームを支える木村の違いはそこだ。
「見習わんとなぁ。」
「ん?何が?」
メールを送り終えたらしい木村が隣に並び、不思議そうな視線を向ける。
黒田は苦笑を浮かべ、何でもないと返した。
「そいやお前はいいの?電話とか。」
「さっきしましたよ。」
「ひなちゃん今日は話してくれた?」
「嫌味すか。」
木村のからかう視線に緩み切った笑みを返し、今日はバッチリ、と続けた黒田。
暫くの間、二人は可愛い子供達の話に花を咲かせていた。

「やっぱ、でかいっすね。」
今一度、『ダイヤモンド・プリンセス・シー』を目の前にして思わず二人は息を飲んだ。
広島で見る船と言えば宮島に渡るフェリーや高速船、大きくても戦艦で。それとは段違いの華やかさとオーラがある。
「・・・コレ、用意出来るなら、こんくらい出してくれるよなぁ。」
ふいに木村が呟いて、コートの右ポケットから取り出した紙切れ。
黒田はそれに目をやると、思わず吹き出した。
「何領収書なんかもらってんすか。」
「取れるモンは取っときゃいいんだって。」
「まぁ、そりゃそうすけど。」
「最悪選手会で頼むよ、新選手会長さん。」
「また嫌な話題を・・・ちなみにそれは会計に頼んで下さい。」
「あの会計じゃ心もとない。」
こっくりと頷いた木村に、黒田は新しいカープ選手会のメンバーを思い出し笑った。

暢気なものだった。
この五輪会への不信感を振り払ったのは、シーズン終盤なんとか定位置に落ち着いたチーム事情。
新しく生まれ変わろうとするチームに、希望と期待、そして決意があった。
先を見据える二人には、この会の真の目的等知る由もなかったのだ。
二人はアテネでもそれぞれの仕事を果たしていた。その事が危機感を遠ざけたのかもしれない。

「あ、あそこみたいっすね。」
「皆もう来てんのかなぁ。」
乗船ゲートへと進む二人の歩調が、少し早くなった。

それが地獄へと続く道のりだとは知らずに。




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