31.不安 --------------------



岩隈は『ダイヤモンド・プリンセス・シー』の船先を見ながら呟いた。

「これかな・・・・・」

他に船は無いし、集合場所は横浜港だって書いてあったし、多分これだろうな・・・。
いや、もう一度確かめた方がいいかも知れない。
そう思い、買ったばかりのタキシードの懐から招待状入りの封筒を取り出し、中のものを右手で抜き取った。
そして読もうとするがこの季節特有の強く骨にまで染みこむような寒い風にあおられ、危うく招待状を海に落とすところだった。
どうせなら貰ってなかった事にしたい、と思いながらも飛ばないようにピンと両手で伸ばして読んだ。
集合日は今日、横浜港に停泊中のある客船にて五輪会を行う。
そのような事が書いてあった。
岩隈は再び顔を上げてその紙に印字してある名前と、
目の前の海に浮かんでいる白い船の側面に書いてある文字が同じがどうか確認した。

・・・・間違いない、これだ。
風にはためく自分のコートの裾を見ながら、驚きより何より先に岩隈の心に浮かんだのは諦めに近い感情だった。
もうここまで来たんだから帰れない、という気持ち。
しかし同時に、別にこれに乗ってアメリカとかに行く訳でもないのにという自分自身に対しての疑問が生まれた。
その答えは簡単だった。

もう一枚、封筒から三つ折にされた白い紙を取り出す。
招待状を左手の人差し指と中指で挟み、今度はそれを読んだ。
何度目とも分からないほど読んだ文章。
今なら空で言えるかな、と少し自嘲した。

不安、なのだ。
この紙に書かれた『強制参加』と『重大な罰則』の意味するものが。
普段はあまり何事も深く考えない岩隈であったが、
この2つの言葉だけは招待状を貰ってからずっと頭の何処かに引っかかっていた。
それに加え、中村の不参加。
人見知りが激しく口数もそれほど多くない岩隈は、
自分でも意識しないうちに誰か自分の身代わりになってくれそうな人が居ないか探す癖があった。
しかしそんな性格と癖を知っているはずの中村の欠席。
今日はアテネ五輪で顔見知りになったメンバーだけとは言え、気後れしていた。

封筒に招待状と紙を戻し、すぐ出せるようコートの右側のポケットに入れる。
ふと思いだし、反対側のポケットから携帯電話を取り出した。
携帯電話を開くと、カチッと音がする。
そして明るくなった画面には愛娘の写真、時計と今日の日付の他には何も無かった。

もう一度ノリさんに電話掛けてみようか。
そう思い一旦はリダイヤルに当たるボタンを押そうとした。
しかし、押せずにそのまま数秒が経った。

やっぱり止めとこう。
岩隈は押そうとしたその指で隣のボタンを押した。
馴れた指使いで画面の壁紙を正月に家族全員で撮ったものに変えた。
笑顔が溢れる液晶画面を見て、ふっと笑みがこぼれる。

携帯電話を畳むと、さっきした行動とは逆にコートのポケットの中に戻した。
そしていささか重い足取りではあるが船に沿って歩き始めた。
帰ってくるよ、帰ってきたらなんか中華街でお土産買おう。それで家に帰るんだ。
自分に言い聞かせるように岩隈は4,5回そう呟いた。

そして乗船ゲートの前に来た。
受付の係員に無言で招待状入りの封筒を渡すと、何かの機械にそれをかざした。
招待状になんかICチップでも入ってたのかな、など思いながら岩隈はその一連の動作を見ていた。

「大阪近鉄バファローズの岩隈様でございますね。」
「はっ、はい。」
ぼんやりとしていた岩隈は、自分の名前をいきなり呼ばれ心臓がバクバクとしたのが自分でも分かるほど驚いた。
係員はそんな岩隈に関せずといったように、白い封筒を返す。
「このままお進みください、それではいい旅を。」
そう言ってにこりと笑った。
岩隈は白い封筒と深く頭を下げる係員を見比べてからそそくさとその場を離れた。

迷う、絶対迷う。
豪華な調度品に囲まれた岩隈はすぐにそう感じた。
タラップを上りきったその先は、さっきまでの灰色の世界はどこに行ったのかと思うほどきらびやかで華美だった。
フラフラと言った方が合いそうな歩きで、まず岩隈はこの船のつくりについて書かれた紙やパンフレットが無いか探した。
方向音痴ではない自信があったが、かといって物覚えに自信がある訳ではない。
数分後、ようやく船内の紹介プレートを見つけ、じっとそれを眺めた。
自分が今居るこのデッキに集合場所であるメインシアターがあるのが分かり、とりあえずほっとする。

しかし、ある事に気が付いた。
『五輪会』はオリンピックに出た選手が呼ばれると中村に聞いた事を思い出したからだ。
オリンピックは何も野球だけが出れた訳じゃない、
他の柔道やレスリング、バレーボールにサッカー・・・様々な種目が日本代表という看板を背負って出場したはず。
それならそれなりに人が居てもおかしくないはず。
なのに今、あるべき足音や話し声が全くといっていいほど聞こえない。
右手にはめた腕時計が指す時刻はあと一時間足らずでこの船が出港することを示しているのにもかかわらず、だ。


やっぱり、何かおかしい。


岩隈の心は不安の濃い霧に加え、まるで新月の夜になったかのごとく真っ暗になった。
自分の他には誰も居ないと感じさせるような、音の無いこの場所が怖かった。
左手をコートのポケットに突っ込み、
そっと携帯電話のプラスティックで出来た表面を撫でながらさっきとはまるで違う足取りで乗船口に向かった。
入り口に向かえば、いつかきっと誰かが来るはず。
そう信じて。




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