24.まもなくプレイボール --------------------



最後に前髪を立たせて、福留は堅い表情のまま背筋を伸ばす。
鏡の中ではやけに余所行きの顔をした自分が見返している。

「タキシードなんてなあ…」

あまり気乗りのしない「五輪会」。
しかも正装で、となれば、余計に重苦しい気になる。
強制参加でなければ、謹んで辞退したいところだ。

黒のタキシードを着こなしてみても、左手の仰々しいギプスの違和感が引き立つだけ。
こんな格好でも出なきゃいけないなんて、と天を仰いでから、ドレスルームを出る。

時計を見れば、集合時間まで40分ほど。
山下公園を眼下に見下ろすこのホテルからなら、大桟橋まで歩いても10分程度だ。
部屋に置いてあるドリップ式のコーヒーを淹れ、忘れ物がないかを頭の中で確認する。

「忘れ物……岩瀬さんか」

名古屋からタキシードで来るわけにもいかないから、大桟橋近くのホテルで1泊しよう、と岩瀬に持ちかけた。
あまり気乗りしない集合だからこそ、気心の知れたチームメイトと一緒の方がいいかもしれないと思ったから。
けれど、岩瀬は岩瀬で別に行くから、と言った。
それならそれで構わないけれど、昨夜から何度か携帯を鳴らしても出ないのが気になった。

また何処かのお姉ちゃんと一緒にいるのか、単に気付かないだけか。
まさか寝坊なんてこともないだろうけど。

何処にいるのか連絡をしようと思って、思いとどまる。

いい大人なんだから、そんなに心配しなくてもいいだろう。
首を振りながら、メモリを呼び出していた携帯を閉じる。
集合場所へ行けば、必ずいるのだろうから。

ポケットに携帯をしまおうとして、何かに気付いたように、もう一度それを開く。
たった3年間しかチームメイトではなかったけれど、福留にとって大きな存在の名前を呼び出す。

どうして電話しようと思ったのか、それは福留自身も分からない。
でも本当は、この招待状が届いた時から、「彼」に電話をしたかったのだ。
自分でもその理由に思い至らなかったから、とうとう今日までかけなかったのだけれど。

社会人の「彼」は仕事をしているのだろうか?
それとも野球部のグラウンドにいるだろうか?

一般人とは違う生活リズムでいるが為に、
福留は「彼」がその時間には携帯を取ることが出来るかどうかは分からなかった。
かつては自分もサラリーマン生活をしたことはあるけれど。

何度かのコールのうち、無機質なメッセージか「彼」の不在を教える。
そのまま切ってしまおうか、と思いながら、耳障りな機械音がメッセージを残せと促す。
だから、反射で声が出る。

「お久しぶりです。福留孝介です。
 これからアテネ五輪会に向かいます。
 その前に話が出来たらと思って電話しました」

用件と呼べるほど明確が意図があったわけではないから、言葉に詰まる。
恐らくあまり長くはない録音時間、もう一言だけ残して、そして携帯を閉じる。
きっといきなり留守電を残された「彼」も戸惑うだろうけれど。
ただ、オリンピックに関することなら、「彼」に訊くのが一番だと思った。
かつての福留のチームメイト。
「ミスターアマチュア」との異名を持つ彼に。

福留が経験したことのないバルセロナ大会の時にも、こんな五輪会があったのか、
一言訊いておきたかったのだ。
こんな不自然な五輪会は、アトランタ大会の時にはなかったのだから。

それでも、宴の開幕は刻一刻と迫っている。
そろそろ大桟橋へと向かう時間だ。
せっかくの集まりに遅刻をして、水を差したくはない。
もう一度身の回りのものを確認して、それから部屋を出た。


 帰ってきたら、また電話します。


留守電の最後に残したメッセージを、何故か口の中でもう一度繰り返してみる。
まるで、自分が戻れない道を歩きだしたのを知っているかのように。
それが最後の伝言になるかもしれないと、勘付いているかのように。

福留は長い脚でゆったりと歩き出す。
地獄へと。




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