109.マウンドの上で --------------------



小笠原が学校に辿り着いた時には既に、辺り一面が闇に包まれていた。
明かりと呼べるのは懐中電灯と、雲から気まぐれに姿を覗かせる月の淡い光のみ。
だが今、月は雲に隠れて地上まで光を届けてはくれない。空に輝く星も、明かりにはならない。
深い暗闇の中、小さな懐中電灯だけが辺りをぼんやりと照らす。

診療所からここまでくる時に一度、大きな爆音を聞いた。
あれは何だったのだろう?驚きはしたものの、深く考える気にはならなかった。
放送で安藤と村松さんが死んだのは聞いた。禁止エリアも一応チェックした。
だがもう心の何処かで、何もかもどうでもいいと思い始めている自分がいる。
いつ死んでもいい。誰かに殺される事はあっても、誰かを殺す事はない。それでいい。
愛する家族にもう会えない虚無感と、何もしてやれない無力感ばかりが前に出て
死そのものに対してあまり恐怖を感じないのは、幸運なのかもしれない。

落ち着いた足取りでグラウンドに向かうと、小笠原はすぐに先客がいる事に気づいた。
グラウンドの中央辺りで座り込む何か。人間である事は間違いないだろう。
ゆっくりと近づいていくうちに、座り込む先客が着込むユニフォームの数字を認識する。

「黒田…?」
小笠原は無意識の内に呼びかけていた。黒田はゆっくりと振り返る。生きていた。
「その声は…小笠原さん、すか…?」
黒田は立ち上がって小笠原の方に体を向けるなり、持っていた鞄を小笠原に向けて突き出す。
「…この鞄、必要ないんで貰ってくれませんか?武器はボウガンです。」
「必要ない…?どういう事だ?」
「俺は殺人者にはなりません。プロの投手です。死ぬならマウンドの上で死にたい。」
小笠原の問いに、黒田はきっぱりと答えた。

黒田が立っている場所はマウンド。
ドームや市民球場に比べればずっと小さい野球場の、平坦なマウンド。

「お前…死ぬ気か?」
「小笠原さんは生きる気ですか?なら…俺を殺してくれませんか?別に恨んだりはしないんで。」
「…黒田……。」
言葉が出なかった。出せなかった。何と言えばいいのか、分からなかった。
自分と同じ決意を持つ者に対して。生を諦めた者に対して。気の利いた言葉が思いつかない。

黙り込んだ小笠原にしびれを切らしたのか、黒田は小笠原に近づいて鞄を無理矢理押し付ける。

「生きるつもりなら俺を殺してください。お願いします。」
小笠原は無言で黒田の鞄を受取る。半開きの鞄の中からはボウガンの取っ手が姿を覗かせていた。
何気なくボウガンを手に取ると、黒田は小笠原の返答を待たずに言葉を続ける。
「それ使います?あ、俺がマウンドに立ってからですよ?忘れんといてくださいよ。
 それと、撃つ時は何も言わんでください。俺もこっちの方見ませんから。
 ああそうや、狙うなら胸でお願いできますか?じゃ、お願いします!」
早口でまくし立てる黒田は小笠原に反論する隙を与えなかった。
ひとしきり言い終えてマウンドの方に駆け足で戻る黒田の背中は、とても寂しいものに見えた。

残されたボウガンはズッシリと小笠原の手に圧し掛かる。
小型だが人を殺すだけの能力は十分にあるだろう。
黒田は死ぬ事を望んでいる。マウンド上で死ねれば本望だというのなら、そうしてやりたい。
黒田の死を引き止めるつもりはない。だが…殺人を押し付けられても困る。

どうしたものか、と思案に暮れる小笠原の視界に一つの建物が映った。
黒田はマウンド上に立つと、静かに目を閉じた。
小笠原にボウガンを託したのは、少々強引だったかもしれない。
最初は自ら命を絶つつもりだったのだが、ボウガンを見るとどうしてもそれができなかった。
失敗して恐ろしい死に様になるのが怖かった。死体は家族に見られるかもしれない。
胸ならまだしも、頭にでも刺さろうものなら。それは絶対に避けたかった。
何度も悩んだ結果、他の死に方をしようと考えていた所に小笠原が来たのでこれ幸いと押し付けた。
改めて思い返すと、かなり強引で情けない。だがこれで安心して死ねる。黒田は肩の力を抜いた。
(…妃奈月…パパはここで死ぬけど、強く生きなアカンで…。)
最後にもう一度抱き上げたい。可愛くて仕方がない幼い愛娘を想う。
(プロ野球選手と結婚したらアカンで…遠征中なんか寂しいやろうし…いっそのこと結婚なんて…
 …ああ、そんな事言うとられへんな。俺もう死ぬんやから。雅代にも苦労させる事になる…。)
もう二度と生きて会う事は出来ないであろう愛しい妻を想う。
(…許してくれ。俺は、最後までお前らが誇れる人間でありたい。チームにとっても…。)
自らの意志で選んだチーム、広島東洋カープを。共に戦ったチームメイトを想う。
(…チームの若い奴らにも酷い悪戯してきたなぁ…。あ、そう言えば今年からボール犬とやらが…。)
どうでもよさそうな事まで考え始めて、黒田はある事に気づいた。

遅すぎる。一向に殺される気配がない――――――?

黒田はもしやと思い、恐る恐る後ろを振り返った。案の定、そこに小笠原の姿は無い。
代わりに視界に映る建物の窓に見える小さな明かりに気づき、黒田は一つ溜息をついた。
「確かに、殺してくれと言われて殺すと返せる人間なんて、そうはおらんでしょうけど…。
 …無言で去らんでもええやないですか…何か一言位言ってっても…。」
黒田はブチブチと愚痴をこぼしながら、建物の方へと走った。

建物は体育倉庫だった。相当古いものらしく、中は埃にまみれ、カビ臭さが鼻を衝く。
小笠原はそんな中を懐中電灯で照らし、散乱している用具の中から一心不乱に何かを探していた。

「…小笠原さん、何してんすか?」
入り口から建物内を照らす黒田を、小笠原は横目で認識する。
「さっき…ある男に、自分から命を捨てる奴ほどの阿呆はいない、と言われた。」
何かを探しながら呟かれた言葉に、黒田は困ったように笑った。
「…小笠原さんのすぐ後ろにおりますよ。」
「奇遇だな。お前の目の前にもいる。」
その発言に黒田は驚愕の表情を見せ、小笠原の背中をマジマジと見やる。
「…小笠原さん…死ぬ気すか?」
「それがどうした?死ぬ気のお前が何で意外そうな顔をするのか分からないが…。」
黒田は複雑な表情を浮かべながら小笠原を見据えている。
小笠原はそんな黒田に苦笑しつつ、ようやく見つけた物を黒田に投げた。
黒田は突然自分に向けて投げられた物を反射的に受け止めた。それは、古びたグローブ。
呆気に取られている黒田に、小笠原は穏やかに言った。

「まあ、お互いそう死に急ぐ事もないだろう。最後にキャッチボールでもしないか?」

グローブをはめた小笠原は床に落ちているボールを拾い上げ、微かに笑ってみせた。


【小笠原道大(2) 黒田博樹(15) H−4】




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