03.ついてない男 --------------------
日常生活でも、ままあること。野球ならば、よくあること。
この稼業、どうしたって怪我は付き物。それすら仕事の内。
けれど。
福留孝介【D1】は自らの左手を見つめた。
大仰なほど強固に固められたギプス。
だが、この焦燥と悔しさは、どんなに頑強なギプスであっても抑えることは出来ない。
新監督になって、四番に据えられた。意識をしないでも、その重圧は彼を押し潰した。
否、意識をしないつもりが、余計な呪縛となって彼の手足を縛り付けた。
不調のどん底で、さんざん野次も浴びた。己も責めた。決して責を問うてこないチームメイトが、余計に辛かった。
そんな中で、オリンピックの為にチームを離れた。
首位に立ったチームは、まるで福留がいなくなった途端に軋みなく回りだした歯車のように、独走態勢に入った。
アテネから毎日チームの様子を国際電話で聞いた。
同僚の岩瀬と二人、「自分たちがいない方が調子いいんじゃないか」と笑ったりもした。
だが、本当は笑っている余裕などなかった。
本当に自分が「要らない」ものであるような気がしたから。
チームが首位を走っているのは嬉しい。
だが、自分がいなくても全く差し障りがないのは、辛い。
悔しさに歯軋りをしたのは、決して一度や二度のことではない。
それでも、かつては慣れ親しんだこともある日の丸のユニフォームを着て闘ううちに、本来の調子を取り戻しつつあった。
長くも苦しいオリンピックを戦い抜いて帰国すれば、そこには優勝まであと僅かなチーム。
さあ、やっと、本領発揮。
そう思った矢先。
誰が悪いわけでもない。誰を恨むことも出来ない事だった。野球選手なら、誰でも覚悟は出来ているはずのこと。
それはきっと、悪魔的な出来事でしかなかったんだろう。
本来の調子を取り戻したその途端に、福留のシーズンは終わってしまった。
たった一つの白いボールが、彼の指を砕いてしまったのだから。
チームがリーグ優勝を決めても、日本シリーズであと1勝を逃して50年振りの日本一を逃してしまっても、
それはもう、福留にとっては他人事にしかならなかった。
傷んだ指を抱え、彼はもうその場所にはいられなかった。
「…俺、そんなに行い悪いんかな…」
まるで何かに呪われてるのかと言いたくなるような一年だった。
何もかも、上手くいかないまま終わってしまった一年だったのだ。
アテネで金メダルを逃したのさえ、自分の不運にチームを巻き込んでしまったかのような気がする。
何処までも後ろ向きな考えになりそうになって、慌てて首を振る。
いつまでも過ぎたことを悔いても仕方がない。
終わってしまったのなら、また次のシーズンへ向けて動き始めなければならない。
誰よりも早くに2004年のシーズンが終わったのだとしたら、また誰よりも早く2005年のシーズンを始められるのだから。
せめて下半身だけでも鍛えようとランニングに出掛けようと立ち上がる。
その時、郵便受けに封書が届いていることに気が付いた。
オートロックのマンション、本来ならエントランスにある郵便受けにしか郵便物は届かない。
ここまでやって来れるのは、よほどのことがない限りないはず。
不審に思いながらリターンアドレスのない封書を開けると、そこにはよく知った名前が印字されていた。
「2004年五輪会のご案内…?」
五輪会、それは毎年オリンピック代表経験者が集まって行われるレセプション。
19歳で初めてオリンピックに出場した福留にとって、知らないものではない。
そしてそこに記されたよく知った名前が、彼の思考から不信感を奪い去ってしまった。
それが、地獄への招待状だとも知らずに。
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